『失われた時を求めて』のマドレーヌの逸話にあるように、人間の五感の中でも嗅覚がいちばん脳を刺激し、記憶を呼び起こす働きをするのだとか。銀座香十本店のガラスドアを開けた瞬間から、商品が並ぶ地下フロアにまで広がるのは、西洋の香水とはまた違う、控えめで柔らかな匂いです。
髪やきものに香りをたきしめ、自分の個性や癒しとして楽しむという文化は、『源氏物語』でもおなじみです。「練香(ねりこう)」といい、香料を梅肉やはちみつで練り固めた丸薬を、香炉の灰に埋めてあたため、薫り(かおり)を立たせていました。
一五七五年創業後、時代はめぐり、江戸時代の名匠、香具師(こうぐし)・第八代高井十右衛門が秘伝の調香レシピをつづりました。貴重な香木の沈香(じんこう)のほか、白檀(びゃくだん)、貝香(かいこう)、甘松(かんしょう)などのアジア生まれの漢方生薬をブレンドしたお香で、「高井十右衛門 1575/JUEMON NO.1」として今なお店頭に並んでいます。
仏事と関わりの深いお線香は、江戸時代以降、庶民に愛されてきました。銀座本店の馬越正子店長は、故人の好きだった香りや仏壇に供える人の好みでお線香を選ぶことを勧めています。特に香十の線香は、天に向かってたなびく煙の形が美しく、時間をゆったりと感じることができます。
お香をもっと気軽に楽しんで欲しいと、「香十いろは」シリーズでは季節ごとに限定の香りを用意しています。初夏は緑茶、白桃がおすすめです。
また、人気の「名私香」は、薫るオイルを閉じ込めた匂い袋。お財布や名刺入れに挟むと、紙を出し入れするたびに、ふと香ります。『伽羅(きゃら)』をマスクケースに忍ばせ、香りを移しているファンも。
香りが立ちすぎず、空間に溶けるように漂うのが和香の真髄。暑い季節に身にまとうのも粋です。
(撮影:大森ひろすけ) |